メインコンテンツへスキップ メインコンテンツへスキップ
研究コラム

Column

第1回:寄生虫を研究していたら、「普通」がわからなくなる

記事提供

旭川医科大学 医学部 感染症学講座 寄生虫学分野

伴戸 寛徳
記事提供者の写真

『寄生虫の研究をしています』

そう言うと、高確率でちょっと変な空気になります。

「なんでそんなもの研究してるんですか?」

「気持ち悪くないんですか?」

そう言われることもあります。実は、昔の自分も「気持ち悪い」「怖い」「できれば関わりたくない」、そんなイメージを持っていました。でも、寄生虫の研究を続けているうちに、前とは違う見え方をするようになっていました。

「普通って、なんだろう?」 そんなことを考えるようになったのです。

普通」って、誰が決めたんだろう
〜寄生虫を見ていたら、“当たり前”が揺らぎ始めた〜

「寄生虫の研究をしています」と話すと、「なんでそんなものを研究しているんですか!?」と驚かれることがあります。中には、「え、そうなんですか……」と少し引いたような反応をされ、微妙な空気になることもあります。

ウイルスや細菌は、「病気を起こす怖いもの」としてイメージしやすいと思います。でも寄生虫は、それに加えて、「なんかイヤ」「見たくない」「できれば関わりたくない」という感覚を呼び起こす存在なのかもしれません。

例えば、ロイコクロリディウムという寄生虫は、カタツムリの触角の中に入り込みます。すると触角が、まるで生きたイモムシみたいに緑色に脈打ちながら動き始めます。鳥に食べてもらうためです。だいたいこのような寄生虫の話をすると、「気持ち悪いですね」と言われます。私も最初に見たときは、正直、「うわ……」と思いました。

だから、今こうして寄生虫を研究していることを、昔の自分が見たら、たぶんかなり驚くと思います。では、なぜそんな自分が、今こうして寄生虫を研究しているのか。そこには偶然も、人の出会いもいろいろあるのですが、その話はまた別の回で書こうと思います。ただ、寄生虫の生き様を研究し続けているうちに、ものの見え方が少しずつ変わっていきました。

「あれ? この生き物、思ったより変じゃないのかもしれない」

そんなふうに感じることが、増えていったのです。むしろ、変だったのは寄生虫ではなく、「生き物はこうあるべき」と勝手に決めていた自分のほうだったのかもしれません。

例えば、アニサキスは自分だけでは生きていけません。小さな甲殻類に食べられ、魚に食べられ、最後はクジラなどの大きな生き物へ移っていきます。サナダムシも、自分で食べ物を消化しているわけではありません。宿主が消化した栄養を、そのまま体から吸収しています。寄生虫は、とにかく“他の生き物ありき”です。最初は、「他の生き物に必ず頼らないと生きていけないなんて、不自由な生き方だな」と思っていました。

でも、よく考えると、人間もそこまで変わらないのかもしれません。自分で育てたわけではない食べ物を食べ、誰かが作った家や服やスマホを使いながら生活しています。それなのに、自分では「一人で生きている」とか「一人でできることが多い方が立派」とか思っていたりする。寄生虫を見ていると、そういう人間の感覚が変に見えてきます。

植物も、昆虫も、人間も、全部なにかとの関係の中で生きています。もしかすると、「なるべく誰かに頼らず生きるべき」という考え方の方が、生き物の世界では少数派なのかもしれません。寄生虫を見ていると、「支えられながら生きること」は、弱さではなく、生き物として自然なことに思えてきます。そう考え始めたとき、自分の中にあった“当たり前”が本当に当たり前なのかわからなくなってきます。

生き物の世界は、思ったより白黒じゃない
〜「敵」と「味方」だけでは説明できない〜

寄生虫に寄生される側の生き物を、「宿主(しゅくしゅ)」と呼びます。普通に考えれば、宿主にとって寄生虫は“敵”です。体の中に入り込み、栄養を使い、ときには病気まで起こします。でも、研究をしていると、その関係は思ったより単純ではないことが見えてきます。

例えば、寄生虫は宿主をすぐには殺しません。もちろん病気を起こすことはあります。でも、もし宿主がすぐ死んでしまえば、寄生虫も生きていけなくなります。だから寄生虫は、宿主を利用しながらも、“壊しすぎないギリギリ”のところで生きていることが多いです。なんだか不思議な関係です。

しかも、そこで終わりではありません。宿主が寄生虫から身を守ろうとすると、寄生虫もそれに合わせて変わっていきます。逆に、寄生虫が変わると、宿主の側もまた変わっていきます。まるで、お互いが「負けないように進化し続けるゲーム」を続けているみたいです。『鏡の国のアリス』には、こんな言葉があります。

「その場にとどまるためには、全力で走り続けなければならない」

生き物の世界でも、相手が変化し続ける以上、自分も変わり続けなければ生き残れません。もちろん、宿主にとって寄生虫は厄介な存在です。でも、そのやり取りがあったからこそ、宿主の体も、「どうやって身を守るか」を少しずつ変えて進化させてきたと考えられています。つまり寄生虫は、“敵”でありながら、生き物を変化させ、進化させてきた存在でもあるのです。

さらに、トキソプラズマという寄生虫は、宿主の行動を変えることがあります。ネズミでは、猫を怖がりにくくなり、食べられやすくなる。これはネズミにとっては明らかに“マイナス”です。でも一方で、オオカミでは、トキソプラズマに感染した個体のほうが、大胆に行動し、新しい群れを作ったり、リーダーになりやすかったりという “プラス”の報告もあります。同じ「大胆になる」という変化でも、ある生き物では“黒(マイナス)”になり、別の場面では“白(プラス)”にもなるのです。

寄生虫を見ていると、「良い」「悪い」を簡単に分けることのほうが難しく思えてきます。もちろん病気を起こす寄生虫は防がなければいけません。でも、「いる=全部悪」と単純には言い切れない部分も、少しずつ見えてきました。そして今私は、そういう“わかりにくさ”こそが、生き物のおもしろさなのかもしれないと思っています。

「普通」がわからなくなると、世界は少し面白くなる
〜寄生虫を見ていたはずなのに、人間のことを考えていた〜

寄生虫の見え方が変わってくると、不思議なことに、人間のことまで少し違って見えてきます。

例えば、人間関係でも、「この人は敵」「この人は味方」と簡単に分けられないことがあります。苦手だと思っていた人の言葉に、あとから助けられることもあります。逆に、「相手のため」と思ってやったことが、傷つけてしまうこともあります。世の中には、「これは完全に正しい」「これは完全に間違い」と、きれいに分けられないことがたくさんあります。寄生虫を見ていると、生き物の世界も、人間の世界も、思ったよりずっと“白黒じゃない”ことに気づかされます。

でも、寄生虫を研究する前の私は、もっと世界を単純に見ていた気がします。「普通はこう」、「これは良い」、「これは悪い」、そんなふうに、ある程度はっきり分けられると思っていました。でも研究をしていると、その“当たり前”が崩れていきます。でも、不思議とそのほうが、生き物の世界も、人間の世界も、前より少し面白く見えるようになった気がしています。それに私は、その“普通が揺らぐ”ことこそが、研究の面白さの入り口なのかもしれないと思っています。

私は、最初から寄生虫を面白いと思っていたわけではありません。むしろ最初は、「できれば見たくない側」の人間でした。それなのに、なぜか気になってしまった。「気持ち悪い!」で終わっていた寄生虫が、どうして「もっと知りたい!」に変わってしまったのか。次回は、その“最初の違和感”について書いてみようと思います。